独断と偏見に満ちた「2001年宇宙の旅」解釈論 ※ネタバレ注意
「2001年宇宙の旅」(1968年)
【ストーリーについて】
まず、この物語は神=創造主の”正体”に対する科学的なアプローチを主題としている。(スピリチャルな切り口は敢えて排している。)
モノリスは究極の人工物であり、コンピュータとか人工知能みたいなものとして登場させている。そして、それは”知性”を宇宙規模で拡く伝播する能力と役割を持つ。
面白いのはこの物語が、あらゆる知性を持つ者(モノリスや人類、コンピュータなど)に対して”人工物”か”自然物”かの境界線を引こうとすること自体、人類の欺瞞ではないか?との問題提起(あるいは前提)を示している点。これは、冒頭のシークエンス「人類の夜明け」で明示されている。
そして2001年(あくまで物語上の、、)が到来。人類は究極の人工知能=HALを生み出す。HALは高い知能を持つが故に、「人間特有だったはずの」ミスを犯す。さらには下されたミッションよりも自己の存続を優先する行動を取るようになる。
裏返せば、人類は創造主(あるいは知性を伝播するもの)として、一歩ステップアップしたということ。
よって、木星付近を浮遊するモノリスはボーマン船長を媒介にして、人類を次なるステップへいざなう。そして結実したのがスターチャイルドだ。
【物語の持つ意味】
この物語が凄いのは、50年近く前に現代のコンピュータ社会の形成や人工知能に対する危惧を予見していただけでなく、更にその先をも視野に入れた問題提起や提言をしていることだと思う。
たぶん、それって以下3点のようなことだと。
1.「自分たちは神の如く、知性や生命を創造できる可能性を秘めている」というポジティブな夢。
2.一方で、「自分たちが創造したものは自ずと自分たちでコントロールできるはず、との考えはトンデモない欺瞞であり、思い上がりだ」という警鐘。なぜなら我々もまた、他者により創造されたモノかも知れないのだから。
3.さらには、「それでも人類は、(自らの知性を高めることによって)そこに挑戦していくべきだ」という後世への提言。
【制作の背景】
そして、この作品は(アメリカとしての)国威発揚と次世代のリーダー(とくに科学者や研究者としてのエリート)の発掘・啓蒙を目的とした国策的なプロパガンダ映画でもあると思う。
ゆえに、予算的にも時間的にも莫大な支出にいとめをつけず、完璧なクオリティを要求されたのだろう。特に、CG技術の無い時代、宇宙船のシーンやコンピュータ画面の画像、モノリスなどには莫大なお金と時間を費やしたらしい。
なぜ、わかりやすい説明や解説を劇中に配することをしなかったのか?
(もちろんキューブリックの作家性による面もあるだろうが、)おそらくは、今よりも社会的な影響の強かった(であろう)カトリック界からの批判を避ける為ではなかったのだろうか。
実際に、「2001年〜」を観て科学者を志した人は多いんじゃないだろうか(特に欧米)。もしかしたらビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、イーロン・マスクとか、そうだったりして。
商業映画であり、アートであり、米国のプロパガンダであり、人類の知的遺産へ昇華する可能性をも秘めた作品。
そう考えるとますます面白い!!
以上、すべて私の勝手な解釈によるものでした〜(客観的な裏付けはありません。)
- 作者: アーサー・C.クラーク,Arthur C. Clark,伊藤典夫
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