映画「ダゲレオタイプの女」と「イレブン・ミニッツ」 最近作にみる、論理的”技法”で魅せる映画たち。
「ダゲレオタイプの女」(2016年)
【あらすじ】
舞台は”現代の”パリ郊外、再開発計画エリアにある街。
主人公の青年”ジャン”は就職難の中、比較的待遇の良い「写真家”ステファン”の助手」に応募し、アッサリと採用される。
写真家”ステファン”はフランス発祥で世界最古の撮影技法”ダゲレオタイプ”に取り組む男。この撮影法は露光時間が長い(60分くらい〜120分くらい)ため、モデルが動かぬよう腕、腰、頭などを”拘束器具”を用いて固定をする。したがって、モデルの心と身体に多大なる負担をかける技法だ。
ステファンは、モデルの命さえも封じ込めるかのような、この”ダゲレオタイプ”に狂信的に魅了され、今は愛娘である”マリー”を主なモデルとして撮影をしている。そして、かつては亡き妻”ドゥーニーズ”をモデルとしていた。かつて、彼女はマリーが愛して止まない植物たちを育てる為の”自家温室”で、首吊り自殺を遂げたのだった。
新たな職場(ステファンの自宅兼スタジオ)で日々働くうち、ジャンはマリーに思いを寄せ始めるのだった。そして二人はいつもまにか相思相愛の関係に。マリーにとっても、”父親のモデル”はとてつもなく負担のかかる取り組み。
実は、彼女は自宅から遠く離れた植物園で職を得られる事になっていた。そのことをマリーはいち早くジャンに伝えるが、父親には”激しい反対”を恐れるあまり、なかなか”告白”できないでいたのだが。。
【みどころ】
このヒリヒリ感は恐怖なのか、哀しみなのか、あるいは切なさなのか。観ていて判らなくなってくる。
こういう組み立ての物語は、大どんでん返し系の映画に使われがちの設定だが、本作には観客を欺こうとしている意図は全く感じられない。むしろオチを予測できるからこそ、じわじわと忍び寄る恐怖や切なさを体感できる映画。
また、2つの”視点”が巧みに切り替わるカメラワークも秀逸。これが、”生者”と”死者”の境界線を次第に曖昧にする効果をもたらしている。さらに、どこか絵画的にみえる構図も相まって、なんとも美しくも、不穏な空気を漂わせる。
黒沢清監督の前作「クリーピー」と同様に、非常に論理的、計画的に仕掛けられた演出(=技法)によって、感情を揺さぶられるのだ。
シンプルなラストシーンも極めて印象的。いつまでも観た者の記憶に絡まって離れない感じ。あの”手の震え”は恐怖によるものなのか、哀しみによるものなのか、あるいは深い絶望感によるものなのか。。
興味は尽きない。
「イレブン・ミニッツ」 (2015年)
【あらすじ】
都会での様々な人々が織りなす”同日・同時刻”の「11分間」(17時〜17時11分)”だけ”をバラバラに切り離し、モザイク状に貼り合わせたような斬新な手法で描いた作品。登場人物は数多いが、印象に残った人たちを挙げると下記のとおり(笑)。
■セクシーな映画女優と嫉妬深い夫
■その女優の”個別”オーディションに臨むスケベな映画監督
■街のホットドッグ売りのオッサン
■ワケあり?の”何か”を運ぶ配達人
■強盗を図る少年
■写生に取り組む老人
■何故か”警察の現場検証”らしき状況に立ち会った女性
■一匹のワンコ
【感想、みどころ】
好きか否か?と問われれば、決して”好き”とは言えない作品。それは、後味があまり良くないからかも知れない(厳密には後味を残さない映画とも言える)。ただ、永く記憶に残る映画ではある。
観客に向かって「君らさぁ、結局こういうの観たいんでしょ?」と挑発してくるような演出。また、随所に仕込まれたホラー映画並みに不穏感を醸す”音”や、
好きか否か?と問われれば、決して”好き”とは言えない作品。それは、後味があまり良くないからかも知れない(厳密には後味を残さない映画とも言える)。ただ、永く記憶に残る映画ではある。
観客に向かって「君らさぁ、結局こういうの観たいんでしょ?」と挑発してくるような演出。
また、随所に仕込まれたホラー映画並みに不穏感を醸す”低域主体の音”や”セパルトゥラ系のスラッシュメタル”、妙に登場人物に張り付いたようなカメラワークが、観る者の心を掻き乱す。
如何に様式美的な物語性を排して、映画なりの面白味を創り出すか。それが、この映画制作上のテーマではなかろうか。
音楽に例えれば、ジャズに対してのハウスミュージックみたいな。。(ハウスは好きだが 笑)
本作の監督作品は初鑑賞なので、的外れかも知れないが、、
この監督は、作品に高い完成度を追求するあまり、”何か”を諦めてしまった人なのではないだろうか。
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