できれば映画に浸っていたい。。

鑑賞した映画のレビューや解説を勝手気ままに書いていきます。

【番外妄想編】映画と感情移入について。

1. 客観的に自分を見るということ

正直言うと、自分を客観視することにあまり興味がなかった。人間が(自分含め)物事を客観視することなど、到底無理だろうと考えていたからだ。

じゃ、何故「客観的に〜」などと言う見出しで今回のブログを書き出したのか。

実は、きっかけがある。

 

以前からpodcastで、たまに聴いている番組がある。今は”境目研究家”などの肩書き(?)を持つ実業家”安田佳生さん”がメインで出演されている「安田佳生のゲリラマーケティング」。この中で”いかに自分を客観視するのか?”といったようなテーマでトークが展開されていた回がある(たぶん、最新回だと思う。2016.12.04.現在)。 

 テーマそのものに興味を持ったわけではない。むしろこの”不毛”とも思えたテーマで、出演者がどんなことを話すのかなぁと思いながら、寝床に入ってダラダラと聴いていた。

ここで安田さんが提示したアイディアが面白い。氏はこんなようことをおっしゃった。”道ゆく見ず知らずの他人を観察しながら(心の中で)ピックアップし、彼(もしくは彼女)に感情移入すれば(他人を主観的に見れば)、自分自身を客観視できるのではないか”と。

以前から、安田さんの発想はユニークで面白いな、などと思ってこの番組を聴いていたのだが、この提言は実に本質を突いていて凄いと感じたのだ。

 

さらに、その興味深い提言を聴いた瞬間、ある考えが自分の頭をよぎった。これって、映画観ながらスキル醸成ができてしまうのではないだろうかと。

f:id:vegamacjp:20161204160434p:plain

 

2. 映画は感情移入を促す装置

それが劇場だろうと自宅であろうと、劇映画(やドラマなど)を”面白がって”観れている場合、ほとんどの人は劇中の登場人物に感情移入をしている筈だ。

逆に、(そのジャンルにもよるのかも知れないが、)いかに登場人物に感情移入できるかが、その物語を楽しんだり大切に思えるか否かの”鍵”とも言っても過言ではないだろう。

 

と言うことは、意図的に他人(登場人物)に感情移入できる”テクニック”を体系化できれば、そこには結構な需要があるのでは、と考えてしまったのだ。

その知識を会得した場合、次の2つのメリットが期待できる(現時点では、あくまで妄想の域を超えないが 笑笑)。

 

①劇映画や芝居など、有料の演劇系コンテンツを深く楽しめる(つまりコストパフォーマンスがUPする)確率が高まる。

②自分自身を”擬似的に”客観視するスキルが身につき、社会適応性がUPしたり仕事がうまく行ったりなど、人生が好転する可能性が上がる。

 

仮に上記2つのスキルが本当に身につくと仮定すれば、その二次的なメリットに至っては、挙げればキリがないほど沢山あるのではないかと思う。

 

ま、そんな”甘味な妄想”に抱かれて(笑)その日はニンマリしながら眠りについたのだった。。

 

3. ある映画にまつわる実体験(??)

f:id:vegamacjp:20161204144545j:plain

実は、こんな考えが浮かんだのには最近鑑賞した”ある映画との出会い”が関係している。それは以前にこのブログでも取り上げ、ネット番組でも紹介した『永い言い訳』という作品。かの、モッくん主演の最新作だ。私はこれを2回鑑賞したのだが、それにはワケがある。

 

私は泣ける映画が大好きだ。それだけ現実に感動が少ないからかも知れない(笑)。この作品は宣伝を見るに、人の”死”を扱ったヒューマンドラマであることは明白だった。したがって、これはきっと魂に訴えかけてくるような感動の物語なのだろうと。もう”泣く気満々”で劇場に足を運んだのだ。本編が始まって数分で、私はモッくん演じる主人公の”衣笠幸夫”に感情移入する。

 

映画自体は見応えもあったし、演出の妙と言うか感動を呼び起こす(ような)エッセンスも”ビシビシと”感じたにも関わらず、イマイチに胸に迫るものがなかった。要は泣けなかったのだ。ある意味”イタイ”、主人公の”人となり”みたいなものに深く感情移入し過ぎたからかも知れない。

実は、彼のキャラクターや(歪んだ)価値観は自分自身に似ているところがあった(残念ながら顔は似ていないが 笑)。それゆえ尋常なく感受移入してしまったのだろう。

 

番組で取り上げるつもりで観に行ったにも関わらず、全く言葉が出てこない。それでも直感的に、映画ファンとして”人に紹介する価値のある映画”であろうことは感じていた。これは、何とも悔しい。。それで2回目の鑑賞を試みることにしたのだ。

 

2回目は、主人公の奥さん”夏子さん”と、竹原ピストル演じる友人家族の亭主”陽一くん”に”意図的”に感情移入してみた。すると中盤くらいから涙が溢れ出て、止まらない。この作品に対する感想の言葉も色々と湧き出てきた。決して違う作品を観たようだったと感じたわけではない。しかし、心への入り方が全く違ったのだ。

 

人は、その拠り所となる”視座”によって、大きく物事の捉え方が変わってくる動物なのだろう。だとすれば、映画鑑賞という極めて日常的な行為の中に、何か体系化するに値する知恵や情報が隠されているのでは、と思えてならない。

 

いつものpodcast番組を聴いていて、そんな想いが頭から湧き出てきたという話。備忘録として、ここに記しておくことにする。

eiganihitaru.hatenablog.com


映画『永い言い訳』 『シェルタリング・スカイ』広尾のシネマ☆JACK#3

 

永い言い訳

永い言い訳

永い言い訳 [DVD]

永い言い訳 [Blu-ray] 

永い言い訳 (文春文庫)

永い言い訳 (文春文庫)

 

 

驚愕のド直球。映画『pk』について


映画『pk』について。広尾のシネマ☆JACK#8

『pk』(2014年)

 監督:ラージクマール・ヒラーニ

 脚本:アビジャート・ジョーシー

    ラージクマール・ヒラーニ

 製作:ビドゥ・ビノード・チョープラー

    ラージクマール・ヒラーニ

 製作国:インド

 配給:REGENTS

 

国内外で大ヒットしたインド映画「きっと、うまくいく」の監督と主演俳優 (アミール・カーン)が再びタッグを組み、前作以上の大ヒットを記録。その後、全米でもロードショーされ、2年の月日を経て”満を持しての”日本公開に至った作品。

f:id:vegamacjp:20161126215843j:plain

【あらすじ 】

留学先で悲しい失恋を経験し、今は母国インドでテレビレポーターをするジャグーは、ある日地下鉄で黄色いヘルメットを被り、大きなラジカセを持ち、あらゆる宗教の飾りをつけてチラシを配る奇妙な男を見かける。チラシには「神さまが行方不明」の文字。ネタになると踏んだジャグーは、"PK" と呼ばれるその男を取材することに。「この男はいったい何者?なぜ神様を捜しているの?」しかし、彼女がPKから聞いた話は、にわかには信じられないものだった──。驚くほど世間の常識が一切通用しないPKの純粋な問いかけは、やがて大きな論争を巻き起こし始める──。

<※「pk」公式HPより抜粋>

 

映画『PK』日本版予告

 

【感想・解説・あらすじ】

私は鑑賞前、予告編や宣伝ポスターなど見るなどして<pk>と呼ばれる主人公に対して”ある先入観”を抱いていた。様々な宗教の装飾を身につけて奇行を繰り返す謎の人物。彼の不可解な行動の秘密が”少しずつ明かされる”に伴い、観るものに感動を与えていく、、といった感じだ。

 

f:id:vegamacjp:20161126232318j:plain

 ところが、劇場に足を運び本編が始まるとびっくり仰天。謎どころか、主人公の素性はいきなり明かされる。いや。明かされる以前に、最初から謎でもなんでもない。これには流石に拍子抜けした。いや、だったらこの先どうやって物語を進行させていくのだろう??かと。

この驚きのオープニングに象徴されるかのように、本作の物語展開はどこを取り上げても”ド直球”。捻りが一切ないのだ(笑)。歌に例えれば、ビブラートを一切使わない<玉置浩二>の歌いっぷりのよう。安全地帯の歌に魅了されてしまうように、捻りの全くない本作の物語世界にいつの間にやらハマってしまう。

 

f:id:vegamacjp:20161126232407j:plain

実はさらにもう一つ、私は本作に対しての先入観を持っていた。観る前からではない。本編の冒頭に表示されたテロップを見てからだ。正確な文言は憶えていないが、要するに「この映画はフィクションであり、いかなる神や宗教団体も傷つけたり揶揄する意図は全くありません、、」といったような意味のことだ。

これを見て、私はこう思ったのだ。「あぁ、この映画に出てくる宗教や神(偶像)は、アクセサリーや調度品のようなディテールであって、物語自体が宗教に言及するものではないのだろう」と。

 

しかしストーリーが進行していくに伴い、驚いたことに私のこの認識は単なる”思い込み”であることが解ってくる。ディテールどころか、現代における”神”及び”宗教”の有り様に対して痛烈な風刺(というか批判)を込めたメッセージをストレートに発しているのだ。まさに”ド直球”。凄い。なんで、こんな映画の企画が通るのか(いい意味での疑問)。そして”こんな映画”が世界中で公開されている現実に感動してしまう。世の中は未だ未だ捨てたもんじゃあないよ、と。

 

直球なだけではない。それは問題提起にとどまらず、具体的な解決策を提示していること。特に欧州には同様のテーマを持った映画は多いが、本作の示す提案は実に本質的。

問題の根本を突いていて対症療法の域に留まらないのだ。

 

f:id:vegamacjp:20161126232529j:plain

しかもインド娯楽映画のお約束、インド系音楽のミュージカルはしっかり盛り込んでいる。つまり全体に明るく楽観的な空気を醸しつつ、このストレートなテーマから一切逃げずに、それこそ”直球”をガシガシ投げ続けてくる。

 

正直言うと、”中盤あたりで”このインド式演出とあまりに浮世離れした主人公のキャラに、少々胸焼けがしてきた。ところが、本作のテーマと主人公の動きがシリアスに繋がり始める後半あたりから、また再び時間を忘れて本作の物語世界に没入してしまったのである。

 

f:id:vegamacjp:20161126232751j:plain

人間は思い込みの動物。

それを一切顧みることがないと、きっと哀しく不幸な出来事が起きるのだろう。

この映画は、神を否定しているわけではない。”創造主”としての神はむしろ積極的に肯定している。但し、周りの動向や吹聴に左右されることなく、自らの”フラットな”価値判断によって物事を取捨選択していく必要性を説いているのではないだろうか。

 

さらには昨今、世界中で見え隠れする”政治的な動き”への”警鐘”といった意味合いも含んでいる、、と考えるのは深読みが過ぎるだろうか。  

とりわけ大衆への迎合から、ともすれば極度の保護主義に走りかねない政治家たちの台頭などに対して。

PK ピーケイ [Blu-ray]

PK ピーケイ [Blu-ray]

 
【Amazon.co.jp限定】PK ピーケイ(非売品プレス付き) [DVD]

【Amazon.co.jp限定】PK ピーケイ(非売品プレス付き) [DVD]

 

 

きっと、うまくいく [DVD]

きっと、うまくいく [DVD]

 

 

激しい喪失感との対話。映画『退屈な日々にさようならを』について

『退屈な日々にさようならを』(2016年)

  監督・脚本・編集:今泉力哉

 プロデューサー:市橋浩治

 配給:ENBUゼミナール

f:id:vegamacjp:20161126150025j:plain


映画『退屈な日々にさようならを』予告編

  第12回トランシルヴァニア映画祭(2013年)にて、最優秀監督賞を受賞(「こっぴどい猫」)した今泉力哉監督の最新作。

前作「知らない、ふたり」は若者たちの”恋愛”をめぐる群像劇だったが、本作は”死”と”創作”をテーマとした、やはり若者たちの群像劇となっている。

【ストーリーについて】

東京と福島を舞台に描かれるヒューマンドラマ。大きく分けると2つの(繋がりある)物語から構成されるセミ・オムニバス形式の構造を持つ。

そしてこの物語は、3つの導入部から始まる。

 

導入①新進映画監督の苦悩

若手映画監督の梶原は劇場用作品の制作を生業としているが、それだけでは”食べていく”ことが出来ない。あくまで”映画制作”に係る仕事にこだわる彼は、同棲中の彼女の”稼ぎ”に幾許か依存している様子も見え隠れする。

そんな彼女からの”押し”に屈するように、ある日ひょんなことで知り合った男から引き合いのあったMV(ミュージックビデオ)の制作を引き受ける。

ところが撮影前の企画段階で、アーティストの所属事務所側と意見の食い違いが露呈してくる。あくまで自分の創作方針に固執する彼は、遂にはこの仕事を断ってしまった。

ところが、その”キャンセル”をきっかけに梶原は思わぬトラブルに巻き込まれていく。。

f:id:vegamacjp:20161126150110j:plain

 

導入②造園会社の廃業

福島で造園業を営む今泉太郎は、(業績不振のためか)亡き父親から引き継いだ会社をたたみ、廃業することを決断する。

数日後の打ち上げで、太郎は唯一人残っていた作業員・清田の再就職が、東京で決まったことを知る。実は東京での新生活に憧れ、密かに清田への想いを寄せていた太郎の妹・ミキ。太郎はそんなミキを気遣って、清田に彼女を一緒に連れて言ってくれないかと頼むのだった。

数年後、結婚して妻とふたり暮らしとなった太郎の下に一本の電話がかかってくる。それは18歳の時に失踪したまま消息を絶っている双子の弟・次郎の同棲相手を名乗る女性からだった。。

 

導入③ある若手監督の死

前述の映画監督・梶原の先輩である山下。彼もまた、新進の映画監督だった。ところが、ある事件をきっかけに生きる希望を失くした彼は、同棲中の彼女の目の前で自殺を遂げる。理由はわからないが、彼女も山下の意思を受け入れて、彼の死を見届けるのだが。。

f:id:vegamacjp:20161126150406j:plain

 

【感想・解説・みどころ】

ジャンルは違えど、「パルプ・フィクション」はじめタランティーノ作品の数々を彷彿とさせるような、編集の妙を堪能できる作品。最初は登場人物の関係性やセリフの意味合いなどが不鮮明な状況で始まるが、次第にそれぞれが繋がりだし、物語の深みを増していく。

 

また、全体的にセリフの応酬がコミカルで、随所に多くの”笑い”が散りばめられている。ある意味広義のコメディ映画とも言えるのかもしれない。

しかし一方で、言い知れぬ”不穏感”を纏ったストーリーと演出に翻弄される面もあり、サスペンスフルな展開も楽しむことができる。ところが、前述のユーモラスな雰囲気が”あくまで”この映画全体を包み込んでいるため、決して暗くはならず、観客に変な緊張感を強いることもない。

 

さらに本作は、(群像劇だけに)セリフを有する登場人物が多く、それぞれに豊かなキャラクター設定が為されている点も大きな魅力のひとつと言える。今泉監督による演出の妙か、あるいはキャスティングの妙か、演じる俳優たちの演技もまた素晴らしい。

この映画はENBUゼミナールという映画専門学校主宰による”ワークショップ”企画の作品として誕生した経緯を持つ。そのせいか、演ずる俳優陣は現役の演劇科の学生含め新人や、未だ有名とは言えない人たちが多い。しかしながら、彼らの素晴らしいポテンシャルによって、そのクオリティが支えられている映画とも言える出来栄えとなっている。


映画「退屈な日々にさようならを」ショートレビュー

 

 <本作を彩る出演者たち(※敬称略)>

 内堀太郎

造園業を営んでいた主人公の”太郎”、そして双子の弟”次郎”を一人二役で演じる。

個性豊かな本作の登場人物の中にあって決して濃いキャラクターではないが、ハリウッドにおける”マーク・ラファロ”のごとく、”演じている感じが全くしない”自然な佇まいが素晴らしい。また、どこかアバウトでポジティブな<兄>とどこまでもネガティブな<弟>を抑えた表現で演じ分けている巧みさも垣間見える。

f:id:vegamacjp:20161126150527p:plain

 

松本まりか

双子の弟・次郎の美しい恋人であり同棲相手 、”青葉”を演じる。

見た目も美しいが、声も可愛い。死語かもしれないが 、本作のマドンナ的存在。

また、この映画の根底にあるテーマ(後述)の語り部としての役割も果たしている。一方で、ルックスとは裏腹にかなり間の抜けた(あるいはぶっ飛んだ)セリフを放つ”ちょっとズレた”意外に難しいキャラを演じきっている。

f:id:vegamacjp:20161126151640j:plain

 

 秋葉美希(みつき)

太郎と次郎の妹”ミキ”を演じる。

彼女の演じるキャラは強烈。序盤で見せる女子高生時代はいたって普通だが、上京後が。。!

 その独特の”毒入り”キャラは、まるで楠美津香(※モロ師岡の奥さん)を彷彿とさせるよう。本作の”コワイ”部分を担うまさにキーマンであり、ブラックユーモア面での要とも言える重要人物(笑)を見事に演じ上げている。

f:id:vegamacjp:20161126154507j:plain

f:id:vegamacjp:20161126154934p:plain

↑楠美津香(笑)

 

猫目はち

太郎の近所に住む幼なじみ(?)で、たまに料理を持ち込むなど世話を焼き、のちに太郎と結婚する”千代”を演じる。彼女の演じるキャラも濃い!!その、真顔(まがお)でいると少々怒っているように見える彼女の佇まいが、本作の演出にもたらした効果は計り知れないのではないだろうか。終盤の緊迫した場面、そこから飛び出す”あまりに意外な”セリフは劇場内の大爆笑をさらっていた。

解りやすく言えば、”藤山直美”的キャラの持ち主。しかも映画『団地』で見せた藤山直美の演技を完全に凌駕する勢いなのだ。

f:id:vegamacjp:20161126160137p:plain

 

りりか

前述した千代の妹でミキの親友、”さほ”を演じている。廃業後(つまりミキの上京後)も、ちょいちょい姉夫婦と交流をしているという設定。

物語の重要な部分を担っているわけではないが、実は、数多い登場人物を結ぶ”狂言回し”的な役割を果たしている。

そして、もうとにかく可愛い(笑)。のん(元・能年玲奈)と小松菜奈を足して2で割ったような”透き通った美しさ”は、本作に一種の清涼感をもたらしている。

f:id:vegamacjp:20161126161726j:plain

 

矢作優

本作のサブストーリーにおける主人公とも言える映画監督”梶原”を演じる。

この役はおそらく今泉監督自身を最も強く投影したキャラクターと(勝手に)解釈している。特に友人である映画監督のワークショップ作品上映会に参加するクダリは、監督の日常における”鬱屈した想い”と創作活動への”モチベーション”を象徴した重要なシークエンスに見えてならない。

演じる矢作優の演技もこれまた素晴らしい。劇中、ちっとも笑わない彼のキャラクターが、実は本作の”笑い”の重要な要素を担っているという心憎さ。(ホントに笑わせていただきました。大爆笑。)特にミキ役・秋葉美希との掛け合いから生まれる”ブラックな笑い”は秀逸。本作のキャッチーな部分を一手に担っていると言っても過言ではない。

さらには、ラストの”シュールで可愛らしく粋な締め括りとなるシーン(カネコアヤノが一人で演じている場面)”は、彼のここまでの演技が”おっつけ”として効いているからこそのクオリティと断言したい。

f:id:vegamacjp:20161126163423p:plain

 

<真のテーマ>

終始、笑いと少々のサスペンスを纏ったエンタテインメントとして観るものを魅了する本作だが、どこか得も言われぬ”哀切感”のようなものを残していく。

それはきっと、”太郎の暮らしの場”が被災地・福島を舞台としていることと無関係ではない。終盤、太郎(今泉家)の自宅の座敷で繰り広げられる登場人物たちの応酬に、それは凝縮されている。

被災地の人々が目の当たりにした、あまりにも”唐突で激しい喪失感”。彼らは日常生活の営みの中で、一体どう自分の気持ちとの折り合いをつけてきたのか。そして、どう踏ん切りをつけて、明日への一歩を踏み出していくのか。その残酷なまでにリアルな”心の記録”が、この映画には刻まれているのに違いない。

 

eiganihitaru.hatenablog.com

 

知らない、ふたり (通常版) [DVD]
 

 

 

罪悪感なき者への深き怨恨(2) 映画『手紙は憶えている』について ※ネタバレなし

手紙は憶えている』(2015年)

f:id:vegamacjp:20161119173956j:plain

【あらすじ】

90歳のゼヴはユダヤ系アメリカ人。今は介護老人ホームで静かに暮らしている。

彼は数日前に妻ルースを亡くしながらも、一晩たつと彼女の死すら忘れてしまうほど記憶力が衰えていた。

 

ある日ゼブは、同じホームに住む親友マックスに呼ばれ、彼が書いた手紙を渡される。そこには、かつてアウシュビッツ強制収容所に共に収監されていた彼ら共通の仇であるナチス将校への”復讐の手順”が詳細に記されていた。その将校の名は”ルディ・コランダー”。彼は戦後、なんと”ユダヤ系”を装ってアメリカへ移住し生き延びていたのだ。

f:id:vegamacjp:20161119192830j:plain

 

ゼブはかねてより妻が亡くなったら、”復讐”を実行にうつすとマックスに伝えていたらしい。それすらも、今となってはゼブ本人の記憶には”おぼろげ”となっていたのだが。そんな彼のために、マックスは計画を手紙にしたためたのだと言う。

 

マックスは”ルディ”と思しき容疑者を4名にまで絞っていた。今は車椅子生活を余儀なくされているマックスに替わって、同朋のゼブに「4名からの”犯人”の絞り込み」と「”復讐”の実行」を改めて促したのだ。

ゼブは早速、手紙どおりに行動を開始する。老人ホームを抜け出した彼は先ず、銃砲店で”実行”に使用する小型拳銃を購入するのだが。。

 

f:id:vegamacjp:20161119192918j:plain

 

【感想・みどころ】 

ケビン・ベーコン主演の「コップ・カー」では、年端もいかぬ少年がピストルを扱うサマが怖かったりしたが、認知症を患った本作の主人公、老人”ゼブ”がそれを扱うサマはもっとコワイ。特に序盤では、主人公とピストルとの”間合い”のようなものが、スリリングな展開をもたらしている。

 

さらには、認知症の老人という”独特な主人公のキャラ設定”により、従来ではSF系の物語(例えば「トータル・リコール」など)でしか為し得なかったドラマ性を、リアルな現代劇に織り混ぜることに成功している。

f:id:vegamacjp:20161119192940j:plain

 

因みに本作の宣伝でうたわれていた、いわゆる”衝撃の”結末は、予告編を観ただけでも何となく予測できていたので、特に驚かされた事はなかった。但し、だからと言って本作がツマラナイということにはならない。
むしろ鑑賞後に、本作のストーリーを思い返せば思い返すほど、如何にこの映画に込められたユダヤ人のナチスに対する怨恨”が深いものかということを感じさせられる。

f:id:vegamacjp:20161119193019p:plain

 

現代における大きな社会問題の一つは、中東や欧州を中心とした”止まらない地域紛争”だ。その点を踏まえて、昨今のナチスをテーマに扱った映画には、”負の連鎖”を食い止めるための提言を込めたものが数多く見受けられる。

しかし裏を返せば、これは「愛する家族を殺した仇を見逃せよ」と言わんばかりのニュアンスにも取れる。

 

(特に欧州で支配的になっている)そんな風潮に対して、少なからず”違和感や拒絶反応を示す者”も実際にはいるのではないだろうか。そんな”怒り冷めやらぬ人々”に向けた架空のアンサー。それがこの映画の裏テーマなのかも知れない。

 


広尾のシネマ☆JACK#6

手紙は憶えている [DVD]

手紙は憶えている [DVD]

 

 

eiganihitaru.hatenablog.com

 

罪悪感なき者への深き怨恨(1) 映画『ザ・ギフト』について


広尾のシネマ☆JACK#6

※動画はネタバレなしです!

 

そのジャンルに関わらず、”贖罪(しょくざい)”がテーマとなっている映画は実に多い。それは言語や文化的な背景の如何に関わらず、世界中のあらゆる人間の価値観や言動に影響を及ぼす共通の”意識”と言えるからではないだろうか。

それだけ人は(それが”法”に触れるか否かは別にして)、過去の自らの言動や行動に何らかの”罪悪感”を感じているものなのだろう。

 

 しょくざい

【贖罪】
犠牲や代償を捧げて罪をあがなうこと。特にキリスト教で、キリストが十字架上の死によって、全人類を神に対する罪の状態からあがなった行為。 

<※google辞書より>

 

とりわけ、

<自分が全く自覚をしないまま、他人に対して多大な心理的・物理的損害を及ぼすような”罪”を犯していた。そして、その被害者は決してそのことを忘れていない、、、>

などというシチュエーションは、多少なりとも”贖罪”の意識を持つ人間に対して、この上ない恐怖を与えるに違いない。

 =========================

 

ザ・ギフト』(2015年)

f:id:vegamacjp:20161119160615j:plain

【あらすじ】

順調にキャリアを重ね、子供には未だ恵まれぬものの”経済的な豊かさ”を手に入れた夫婦。夫のさらなるキャリアアップを伴う転職で、彼らは転居先での新生活をスタートさせる。そして、そこは夫<サイモン>が育った故郷の街でもあった。

 

理想的な邸宅を手に入れた夫婦は、生活雑貨の買い出しのため訪れたショップで、たまたまサイモンの高校時代の同級生<ゴート>と出会う。25年ぶりの再会を喜びつつも、先を急ぐ夫婦はゴートに自宅の連絡先を渡して、その場を去った。

 

ある日、自宅前にゴートからの転居祝いを兼ねた”贈り物”として一本のワインが置かれていた。最初は素直に喜ぶ夫婦だったが、彼からの”贈り物”はその後も続いた。次第にその内容もエスカレートしていき、夫婦は困惑し始めるのだが。。

 

【感想・解説】

<ストーリーについて>

※半ネタバレ注意!ただし、これ読んでも映画は楽しめると思いますが(笑)

こういう、”贈り物”系スリラーは数多くあるため、如何に”捻るか”が作る側の腕の見せ所なのだろう。裏返せば、多くのネタが出尽くした感がある為、結構”レッドオーシャン”的な分野ではなかろうか。

そういう意味では、本作は隙間のピンポイントを突いた力作だと言える。その結末(つまり、この物語の有り様)は、予測ができなかったし、ホラー映画ばりのビックリ箱的な”怖がらせ”が散りばめられていて、映画の進行を見届けるのが、恐ろしくなってくるような展開をみせる。 

 

また物語設定の面においても、”ギフト”の贈り主が、その素性も含めて序盤からハッキリしている点が面白い。さらには、彼は決してサイコパスではないという点も。その仕込んだ罠が巧妙であればあるほど、彼の”頭脳的な資質”も相まって、その哀しみと怨恨の深さが浮き彫りになるというストーリー構造を為している。
結果的に、あえて物語設定の前提条件を絞り込んで臨んだことが、本作の勝因のひとつだと言えるのではないだろうか。

 

あえてツッコミを入れるとするなら、”イカれた輩”が複数いて、彼らがお互いに敵対している場合、恐怖も相殺されてしまうのでは、という点。言い換えれば、それが本作の”ホラー”ではない所以と言えるのかも。

ラスト、主人公を打ちのめしたのは赤ん坊の目ではない。もはや、父親など誰でもよいかのような空気を醸す妻<ロビン>の強い眼差しなのだ。
結局、しょうもないオトコどもを”消去”して、幼子とふたり再出発を図るシングルマザーの背中を押す物語だとしたら、(特に欧米では)多くのキャリア・ウーマンの共感を得る一作なのかも知れない。

 

<スタッフ、キャストについて>

f:id:vegamacjp:20161119172701j:plain

夫・サイモンの同窓生ゴートを演じるジョエル・エドガートンによる監督デビュー作。脚本も彼自身の執筆による渾身の一作といえる。

サイモン役は、ジェイソン・ベイトマン。映画監督の父と女優の姉を持つ。近作はコメディ映画への出演が多く、ディズニー・アニメズートピアではキツネのニック・ワイルド役で声の出演をしている。

f:id:vegamacjp:20161119172722j:plain

妻のロビン役はウッディ・アレン監督それでも恋するバルセロナで知的ながらも禁断の恋に落ちてしまう主人公を演じたレベッカ・ホール。彼女独特の知性を醸すセクシーさが、自身のキャリアを犠牲にしてきた妻ロビンの、”どこか抑圧された感情”を表現していて素晴らしい。

f:id:vegamacjp:20161119172734p:plain

ザ・ギフト(字幕版)

ザ・ギフト(字幕版)

  • Joel Edgerton
  • スリラー
  • ¥2000
ザ・ギフト (吹替版)

ザ・ギフト (吹替版)

  • Joel Edgerton
  • 外国
  • ¥2000

 

ザ・ギフト[Blu-ray]

ザ・ギフト[Blu-ray]

 
ザ・ギフト[DVD]

ザ・ギフト[DVD]

 

 

若者たちのおバカな日々を描く群像劇。映画「エブリバディ・ウォンツ・サム!!」と「アニマル・ハウス」について

「エブリバディ・ウォンツ・サム!!世界はボクらの手の中に」(2016年)

【あらすじ】

1980年9月、アメリカのとある州立大学に”野球”入学する主人公”ケヴィン”は、新学期のスタートする3日と15時間前に野球部員が共同生活する”ハウス”に入居する。

そこで彼が見たものは、メジャーリーグからも注目される名門チームのメンバーとは思えないほどハチャメチャな日々を送る先輩たちだった。。

f:id:vegamacjp:20161113230719j:plain


映画「エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に」ショートレビュー

【感想・みどころ】

ひとつのシリーズ、あるいは、ひとつの作品を長年にわたって撮るのが趣味(?)の、ど変態監督、われらがリチャード・リンクレイターの最新作(笑)。
ある大学の名門野球部の新入生が主人公。この映画は同監督の前作とうって変わって、主人公の入寮から新学期を迎えるまでの”3日と15時間だけ”を描いている。


とにかく、諸先輩はじめこの野球部の面々のバカっぷりが突き抜けている(笑)。冷静にみれば、メジャーからのスカウトを期待するような一流チームが”こんなわけ”ない筈(笑)だが、なぜか、荒唐無稽さは感じられれず、なかなかリアルな青春群像劇に見えてくるのだから不思議だ。
きっと、ひとりひとりのキャラが丁寧に設定されていて、こんなやつ”いるいる”感がしっかりと湧き出ているからなのだろう。
ほんとこんなハチャメチャなヤツ、社会に出たら一体どうなるのだろうかと少々心配していた友人が、意外や大企業の要職に就いていたりとか、近い経験をした人も少なからずいるのではないだろうか。

f:id:vegamacjp:20161113230839j:plain

そんな仄かなリアル感が、この終始バカっぷり満載な”はずの”映画鑑賞後に、なんとも言えない切ない余韻を残してくれる。それは観るものの多くが、自分の青春時代の想い出の”どこかほろ苦い部分”とオーバーラップしてくるからではないだろうか。

 

音楽面でも(特に)ミドルエイジ以上の観客にとっては、胸にグッとくるような楽曲のオンパレードで楽しめる。その辺はちょっと「スクール・オブ・ロック」の匂いも感じるような。本作を観ると、当時のオトコどもにとっては”ヴァン・ヘイレン”って、もろミーハー系アイドル音楽の位置づけだったってことが解る。ところが観てる私にとっては、”泥レス”シーンでかかるヴァン・ヘイレンが一番音楽的にアガってしまったという小っ恥ずかしさ(笑)。

 

f:id:vegamacjp:20161113233731j:plain

また、主人公とガールフレンドが徐々に親密になっていくシーンでは、この世代特有の理屈っぽいロマンティシズムに満ちた会話の応酬が描かれる(笑)。それはまるで「ビフォア・サンライズ」におけるイーサン・ホークとジュリー・テルピーを彷彿とさせる佇まいなのだ。

そうそう、主人公演じるブレイク・ジェナーって、イーサン・ホークと「6才のボクが〜」主演のエラー・コルトレーン双方と同じ匂いを感じるのは私だけだろうか。ガールフレンド役のゾーイ・ドゥイッチジュリー・デルピーっぽいし(笑)。


ここで、ある想いがリンクレイター・ファンである私の頭をよぎる。もしかしてこの映画は、長年にわたる大河ヒューマンドラマ・シリーズの序章に過ぎないのではないかと(笑)。

f:id:vegamacjp:20161113233807j:plain

 

エブリバディ・ウォンツ・サム! !  世界はボクらの手の中に

エブリバディ・ウォンツ・サム! ! 世界はボクらの手の中に

 

 

「アニマル・ハウス」(1978年)


映画「アニマル・ハウス」ショートレビュー

【あらすじ】

時は1962年、舞台はアメリカ北東部にある架空の私立大学”フェーバー大学”。新入生のラリーとケントは新人勧誘を目的としたパーティ真っ最中のサークル”オメガクラブ

”のハウス(寮)を訪れる。ところが、家柄や学業成績などエリートとしての資質が明らかな学生にしか興味のないクラブに爪弾きにされてしまう。

仕方なく、既に同校を卒業したケントの兄の古巣という”デルタクラブ”のパーティに出向く。そこはビール瓶が飛び交い、”ブルート(ジョン・ベルーシ)はじめ”粗暴でハチャメチャな先輩がひしめく”問題学生”の巣窟だった。。。f:id:vegamacjp:20161113212004j:plain

【感想・みどころ】

全米で人気のコメディショー「サタデイ・ナイト・ライブ」。その番組でブレイクしたコメディアン、ジョン・ベルーシの、日本における劇場用映画デビュー作。彼は、のちにダン・エイクロイドと共演した「ブルース・ブラザーズ」やスティーブン・スピルバーグ初期の戦争コメディ「1941」での活躍で、一躍スターダムにのし上がった。

 

もうおバカ加減が半端ない”デルタクラブ”を象徴するハチャメチャ学生”ブルート”を演じるのが、このジョン・ベルーシ。あのニコリともせず”もろ”毒を孕んだ独特のキャラで観客を爆笑させられるのは、後にも先にも彼だけだろう。この毒キャラ中心に独特のドタバタ感を醸すコメディ映画としての基礎は、監督ジョン・ランディスの次作「ブルースブラザーズ」において見事に踏襲されている。

 

しかしブルートは、本作に於けるギャク要素を一手に牽引する役割を担うものの、物語上では決して主人公とは言い難い。(タイトルバックのクレジット上では主演扱い)

物語上の主人公は、新入生の片割れ”ラリー”。彼はちょっとしたオトボケキャラではあるものの、並み居る先輩たち(笑)の間においては、意外にマトモなほう。このラリーと前述したブルートの関係性は、面白いことに赤塚不二夫の「天才バカボン」に於ける”バカボン”と”バカボンのパパ”のそれと相似形を成す。<ちょっと薄めな小ボケキャラ>と<毒に満ちた”危ない”過激キャラ>とのコンビネーションが、どこかシニカルな笑いを誘うようなハイブリッドな物語構造を成しているのだ。

 

本作のもう一つの”みどころ”は、今となっては意外に豪華な出演者の顔ぶれ。ジョン・ベルーシは冒頭に書いたとおりだし、物語上の主人公”ラリー”を演じるトム・ハルスは本作出演後にアカデミー作品賞受賞作アマデウス主人公モーツァルトに抜擢されている。

また、ラリーの先輩の彼女でデルタクラブの紅一点”ケイティ”を演じたカレン・アレンは、後にインディ・ジョーンズ・シリーズにおいてハリソン・フォード演じる主人公の相手役(準主役)で2作品に出演している。

そして、ケイティといい関係になってしまう奔放な大学教授”デイブ”を演じるドナルド・サザーランドは、後にロバート・レッドフォードの初監督作「普通の人々」で主演している。さらには、後にフットルースで主演したケヴィン・ベーコンも端役で本作に出演しているのだ。

アニマル・ハウス スペシャル・エディション [DVD]
 

 

 

世界中が求める究極の”お母ちゃん”像。映画「湯を沸かすほどの熱い愛」について

「湯を沸かすほどの熱い愛」(2016年)

監督・脚本:中野量太

主演:宮沢りえ

配給:クロックワークス


映画「湯を沸かすほどの熱い愛」ショートレビュー

 

【あらすじ】

主人公は、幸野家が営む銭湯「幸の湯」のオカミ<双葉(ふたば)>。1年前に亭主<一浩>が突然失踪したことにより、銭湯は休業を余儀なくされていた。

そんな状況のもと、双葉がパートに出て生計を立てていたが、ある日勤務中に倒れてしまう。彼女はステージ4の末期癌に侵されており、もはや手術や放射線治療を施しても効果が期待できないほど、病は進行していた。余命2ヶ月を告知された双葉は一晩激しく落ち込むも、ある決断をして立ち直る。

 

その決断とは、近い将来に遺された”家族”が、しっかりと自分の足で歩んでいける素地を築き上げること。

具体的には、

(1)失踪した亭主を呼び戻し、「幸の湯」の営業を再開させること

(2)心は優しいが少々気の弱い娘<安澄>の背中を押して、独り立ちできるようにすること

f:id:vegamacjp:20161105175004j:plain

双葉は、この二つの目的を実行すべく気丈にも行動を開始するのだった。

その結果、銭湯の営業再開は実現し、安澄は”いじめっ子”を撥ね付ける強さを身につけ、一浩と(これまた家出した)愛人との間にできた娘<鮎子>も加えて4人での新たな家族生活が始まる。

 

ある日、双葉は一浩に銭湯の留守番を託し、娘2人とのドライブ旅行に出かける。一浩には、「自分の病について娘に説明する場を設けるため」と説明するが、実はもう一つ大きな目的があった。。

f:id:vegamacjp:20161105175028j:plain

 

【感想・みどころ】

なんかベタなタイトルだなぁ、と思っていた。観るまえは。

観てみると、確かにタイトルに違わず熱い愛に溢れた映画。もうこのタイトルしかないだろうこの映画には、と逆に納得してしまった。

 

主人公は不治の病により余命幾ばくもない主婦。”お涙ちょうだい系の物語”にはありがちな設定だったりするが、本作は他の作品とはかなり趣が異なる。主人公の”あぁ、可哀そう”を描いた物語ではないのだ。

自らの運命を悟った彼女は、その信条と決断に従い、壊れてしまった家族や家業、そして壊れかけた子供たちの心の修復と再生に心血を注いでいく。

 

f:id:vegamacjp:20161105175357j:plain

これは、”哀しさ”とポジティブな”熱さ”のハイブリッド構造をもつヒューマンドラマ。

ともすれば、あざとく、ワザとらしく見えかねない難しい役だが、宮沢りえが演じると”自然に”且つ”カラッとした空気感すら纏って”見えてしまうのだから不思議。

あの、本当はココロがバキバキに折れてもおかしくない状況で、凛とした佇まいを残しながら、気丈に目的に向かって歩き続ける主人公を、もはや涙なしで観ることなどできない。そんな彼女を支えるものは、ほかならぬ周囲への愛情なのだから。

 

一貫して、残された僅かな時間を周囲のためにばかり費やす主人公。

しかし終盤、主人公が”ひとつだけ”自分のために取る行動がある。その顛末は、実に深い”哀しみ”と”コミカル”さが表裏一体となった、映画史に残る名シーンではないだろうか。彼女は、”聖人君子”でも”女神”でもない。常に誰かと愛情を感じ合っていなければ、もはや前向きに生きてなど行けないひとりの女性だ。

だからこそ、その生き方は崇高で、観る者の心を掴むのだろう。

 

f:id:vegamacjp:20161105174541j:plain

また、”長女”安澄を演じる杉咲花の演技も素晴らしい。あの心優しくも繊細で”弱っちい”感じの演技表現はもうリアル云々のレベルを完全に超越している。だからこそ、殻を抜ける(現状を打破する)瞬間に見せる、”空気の震え”のようなものを観客は感じることができるのではないだろうか。

f:id:vegamacjp:20161105175059j:plain

そして、終盤で初めて主人公が娘に打ち明ける秘密。実はこれは、序盤の安澄が踏み出した”冒険”の動機を根底から覆しかねない衝撃的な事実。たとえ自分は(この子から)嫌われても、強く巣立って欲しい。この無償の愛に基づく決断を”死に際に”実行に移した主人公の”切実なる”想いを、涙なしに受け止めることなど出来るはずがない。

要は、随所に激しく涙腺を刺激する仕掛けが満載の映画なので、涙もろい人は通常より多めにハンカチを用意することをお勧めしたい(笑)。

 

さらに、この重厚でリアルでポジティブでユーモアに溢れた物語を締め括るファンタジックなラスト!ここで初めて表示されるこの映画のタイトルに、もはや”違和感”など微塵も感じられないのだ。

  

湯を沸かすほどの熱い愛 (文春文庫 な 74-1)

湯を沸かすほどの熱い愛 (文春文庫 な 74-1)

 
『湯を沸かすほどの熱い愛』オリジナルサウンドトラック

『湯を沸かすほどの熱い愛』オリジナルサウンドトラック

 

 

 

失くして初めて気づく想い。 映画「シェルタリング・スカイ」と「永い言い訳」について

シェルタリング・スカイ」(1990年)

監督:ベルナルド・ベルトルッチ

脚本:ポール・ボウルズ(原作者)

   ベルナルド・ベルトルッチ

   マーク・ペプロー

撮影:ヴィットリオ・ストラーロ

音楽:坂本龍一

f:id:vegamacjp:20161030225742j:plain 

【あらすじ】

結婚して10年になるポート(夫)とキット(妻)。倦怠期を迎えたふたりの気持ちは、離れかけていた。そんな状況を打破するために、ふたりはモロッコへの旅行に赴く。共通の友人である男性タナーと共に。

 

ところが、現地に着くなりポートは地元の売春婦と、キットは同行していたタナーと関係を持ってしまい、却ってギクシャクとしてしまう。

今度こそ、夫婦関係の修復を図ろうとするポートは、タナーを妻から引き離し、キットと二人きりで旅を続けることにする。

 

しかし不幸なことに、道中でポートは腸チフスに感染してしまう。高熱に犯され日に日に衰弱していくポート。そんな夫を献身的に看病するキット。ふたりの心は再び近づき始めるのだが。。

キットの努力も虚しくポートの命は尽き果ててしまう。激しい喪失感に苛まれたキットは夫を弔うこともできずに、砂漠を彷徨い始めるのだった。

そして身も心もボロボロになりかけたキットは、地元のキャラバンを率いる若いアラブ人青年と出逢うが、、、

 


The Sheltering Sky (1990) Official Trailer - Debra Winger, John Malkovich Movie HD

 

【みどころ、解説】

監督、撮影、音楽、「ラスト・エンペラー」を手がけた主要スタッフが再び手を組んで、当時話題となった作品。

まるでドキュメンタリーのごとく、モロッコの情景や現地の人々の営みが丁寧に捉えられた映像。これらの描写が、激しい喪失感によって自分を見失っていく”キット”の心情を浮き彫りにしていく。

 

終盤で原作者のポール・ボウルズ自身が現れ、語るクダリがある。

なにげない一瞬が、じつはかけがえのない人生の1ページなのだと。

壮絶で不遇な運命の展開こそが、このきらめきに気づかせてくれるという皮肉。

失われて初めて気づく自らの”想い”が深ければ深いほど、そこから溢れ出る切なさは大きい。


ポートとキットがサイクリングで赴く高台。そこで交わされるラブシーンが、その後の運命を暗示するようで哀しく、特に印象的。

ポートを演じるジョン・マルコヴィッチの、どこか明後日の方向をトロンと眺めるような眼差しが、彼のやるせない感情を象徴しているかのよう。そもそも、何故ふたりの関係性がこうなったのか。その点について、本編で語られることは一切ない。

きっと、何かはっきりとした出来事があったわけではないのだろう。経年劣化が人の感情にまつわる常だとしたら、この物語は誰にでも起こりうる事を描いていることになる。

 

坂本龍一の手によるテーマ音楽も忘れられない。あの印象的なメロディが、観るものの心を静かに揺さぶる。
映画音楽は、観ているときの演出効果だけではなく、後にその物語を思い起こさせる為の装置であることにも、また気づかされる作品でもある。

シェルタリング・スカイ [DVD]

シェルタリング・スカイ [DVD]

 

 

 

永い言い訳」(2016年)

監督・脚本・原作:西川美和

f:id:vegamacjp:20161030230024j:plain


映画レビュー『永い言い訳』 『シェルタリング・スカイ』広尾のシネマ☆JACK#3

 

【あらすじ】

主人公の衣笠幸夫(本木雅弘)は”津村啓”のペンネームで小説を執筆する”タレント”作家。美容院を営む実業家の妻、夏子(深津絵里)とふたりで暮らしている。

幸夫の妻に対する気持ちは冷めていた。彼女は”津村啓”の無名時代を経済的に支えていた時期があり、それが主人公にとっての”目の背けたくなるような過去”を象徴するかのように、(理不尽にも)彼女への嫌悪感を煽っていた。

 

夏子は高校時代からの親友”大宮ゆき”と高速バスで旅行に出かける。しかし不幸にも旅先への途上で事故に遭い、親友と共に亡くなってしまう。

事故当時、幸夫は自宅で愛人との情事に耽っていた。彼は妻の訃報を聞いても何も感じることができない。

有名人であるが故、マスコミ向けに悲しむ遺族を演じながらも、自分の気持ちを整理できない虚しさが、日増しに彼を苦しめていく。

 

そんなある日、事故を起こしたバス会社が主催した”遺族説明会”で、妻の親友”ゆき”の夫”大宮陽一”(竹原ピストル)と出会う。実は、夏子は大宮家と親しく交流していた。陽一は「亡き妻の話ができるのは幸夫くんだけだ」と、初対面ながら親しげにしてくる。幸夫と違い、妻を失った悲しみに暮れていた陽一には、ふたりの幼い子供がいる。長距離トラックの運転手を務める彼だけでは、これまでのように子供達の面倒を見ることができない。長兄の”真平”はそれまでの塾通い=中学受験を諦めようとしていた。

 

それを知った幸夫は”思いつき”かのように、陽一の留守中に子供達の面倒を見ることを買って出る。

それまで人の世話をすることなどなかった幸夫にとって、大宮家との交流は”妻をないがしろ”にしてきた自分自身に対しての免罪符でもあった。

そして次第に、幸夫とって、子供たちと過ごす時間が”掛け替えのないもの”になっていくのだが、、

 


映画『永い言い訳』本予告

【みどころ、解説】

本木雅弘が演じる主人公”幸夫”は、まるでコドモ。自分本位にしか人との関係性が築けない。じゃ、この人はゲスか?というと、そんなことはとても言えない。

そこには、もうひとりの自分がいたからだ。


中盤、海辺で陽一くんにかけた幸夫の言葉。それは即ち、”幸夫”自身にこそかけられるべきものだ。その後、公園カフェでかけた言葉も。そして終盤、ある場所へ向かう列車内で、幸夫が真平くんに説いた言葉もしかり。


幸夫にとって大宮家の子供たちとの生活は、亡き妻の遺した”彼女自身の吐息”のようなもの。そこには彼女の想いが詰まっていた。

主人公は、何かに気付いたわけでも、変化したわけでもない。

今は灰となってしまった”妻・夏子の想い”を目の当たりにしたのだ。

 

本作は、迷える中年オトコの再生物語ではない。

まさに、彼の”永い言い訳”を描いた物語と言える。 

永い言い訳

永い言い訳

 

永い言い訳 [DVD]

永い言い訳 [DVD]

 

    

永い言い訳 (文春文庫)

永い言い訳 (文春文庫)

 

 

映画「ダゲレオタイプの女」と「イレブン・ミニッツ」 最近作にみる、論理的”技法”で魅せる映画たち。

「ダゲレオタイプの女」(2016年)

f:id:vegamacjp:20161021213853j:plain

【あらすじ】

舞台は”現代の”パリ郊外、再開発計画エリアにある街。

主人公の青年”ジャン”は就職難の中、比較的待遇の良い「写真家”ステファン”の助手」に応募し、アッサリと採用される。

写真家”ステファン”はフランス発祥で世界最古の撮影技法”ダゲレオタイプ”に取り組む男。この撮影法は露光時間が長い(60分くらい〜120分くらい)ため、モデルが動かぬよう腕、腰、頭などを”拘束器具”を用いて固定をする。したがって、モデルの心と身体に多大なる負担をかける技法だ。

f:id:vegamacjp:20161021213928j:plain

 

ステファンは、モデルの命さえも封じ込めるかのような、この”ダゲレオタイプ”に狂信的に魅了され、今は愛娘である”マリー”を主なモデルとして撮影をしている。そして、かつては亡き妻”ドゥーニーズ”をモデルとしていた。かつて、彼女はマリーが愛して止まない植物たちを育てる為の”自家温室”で、首吊り自殺を遂げたのだった。

 

f:id:vegamacjp:20161021214001j:plain

新たな職場(ステファンの自宅兼スタジオ)で日々働くうち、ジャンはマリーに思いを寄せ始めるのだった。そして二人はいつもまにか相思相愛の関係に。マリーにとっても、”父親のモデル”はとてつもなく負担のかかる取り組み。

実は、彼女は自宅から遠く離れた植物園で職を得られる事になっていた。そのことをマリーはいち早くジャンに伝えるが、父親には”激しい反対”を恐れるあまり、なかなか”告白”できないでいたのだが。。

 

【みどころ】

このヒリヒリ感は恐怖なのか、哀しみなのか、あるいは切なさなのか。観ていて判らなくなってくる。

こういう組み立ての物語は、大どんでん返し系の映画に使われがちの設定だが、本作には観客を欺こうとしている意図は全く感じられない。むしろオチを予測できるからこそ、じわじわと忍び寄る恐怖や切なさを体感できる映画。

f:id:vegamacjp:20161021214029j:plain

 

また、2つの”視点”が巧みに切り替わるカメラワークも秀逸。これが、”生者”と”死者”の境界線を次第に曖昧にする効果をもたらしている。さらに、どこか絵画的にみえる構図も相まって、なんとも美しくも、不穏な空気を漂わせる。
黒沢清監督の前作「クリーピー」と同様に、非常に論理的、計画的に仕掛けられた演出(=技法)によって、感情を揺さぶられるのだ。

 

シンプルなラストシーンも極めて印象的。いつまでも観た者の記憶に絡まって離れない感じ。あの”手の震え”は恐怖によるものなのか、哀しみによるものなのか、あるいは深い絶望感によるものなのか。。
興味は尽きない。

 

 

「イレブン・ミニッツ」 (2015年)

f:id:vegamacjp:20161021214043j:plain

【あらすじ】

都会での様々な人々が織りなす”同日・同時刻”の「11分間」(17時〜17時11分)”だけ”をバラバラに切り離し、モザイク状に貼り合わせたような斬新な手法で描いた作品。登場人物は数多いが、印象に残った人たちを挙げると下記のとおり(笑)。

■セクシーな映画女優と嫉妬深い夫

■その女優の”個別”オーディションに臨むスケベな映画監督

■街のホットドッグ売りのオッサン

■ワケあり?の”何か”を運ぶ配達人

■強盗を図る少年

■写生に取り組む老人

■何故か”警察の現場検証”らしき状況に立ち会った女性

■一匹のワンコ

 

f:id:vegamacjp:20161021214111j:plain

 

【感想、みどころ】

好きか否か?と問われれば、決して”好き”とは言えない作品。それは、後味があまり良くないからかも知れない(厳密には後味を残さない映画とも言える)。ただ、永く記憶に残る映画ではある。

 

f:id:vegamacjp:20161021214129j:plain

 観客に向かって「君らさぁ、結局こういうの観たいんでしょ?」と挑発してくるような演出。また、随所に仕込まれたホラー映画並みに不穏感を醸す”音”や、

好きか否か?と問われれば、決して”好き”とは言えない作品。それは、後味があまり良くないからかも知れない(厳密には後味を残さない映画とも言える)。ただ、永く記憶に残る映画ではある。

f:id:vegamacjp:20161021214159j:plain

観客に向かって「君らさぁ、結局こういうの観たいんでしょ?」と挑発してくるような演出。
また、随所に仕込まれたホラー映画並みに不穏感を醸す”低域主体の音”や”セパルトゥラ系のスラッシュメタル”、妙に登場人物に張り付いたようなカメラワークが、観る者の心を掻き乱す。

 

f:id:vegamacjp:20161021214218j:plain

 如何に様式美的な物語性を排して、映画なりの面白味を創り出すか。それが、この映画制作上のテーマではなかろうか。

音楽に例えれば、ジャズに対してのハウスミュージックみたいな。。(ハウスは好きだが 笑)

 

本作の監督作品は初鑑賞なので、的外れかも知れないが、、
この監督は、作品に高い完成度を追求するあまり、”何か”を諦めてしまった人なのではないだろうか。

 

↓☆動画でもこの映画たちを紹介しています!☆↓


【映画情報】広尾のシネマ☆JACK#2

 

独断と偏見に満ちた「2001年宇宙の旅」解釈論 ※ネタバレ注意

2001年宇宙の旅」(1968年)

f:id:vegamacjp:20161016203015j:plain

【ストーリーについて】

まず、この物語は神=創造主の”正体”に対する科学的なアプローチを主題としている。(スピリチャルな切り口は敢えて排している。)
モノリスは究極の人工物であり、コンピュータとか人工知能みたいなものとして登場させている。そして、それは”知性”を宇宙規模で拡く伝播する能力と役割を持つ。

f:id:vegamacjp:20161016204243j:plain

 

面白いのはこの物語が、あらゆる知性を持つ者(モノリスや人類、コンピュータなど)に対して”人工物”か”自然物”かの境界線を引こうとすること自体、人類の欺瞞ではないか?との問題提起(あるいは前提)を示している点。これは、冒頭のシークエンス「人類の夜明け」で明示されている。

f:id:vegamacjp:20161016203206p:plain

 

そして2001年(あくまで物語上の、、)が到来。人類は究極の人工知能=HALを生み出す。HALは高い知能を持つが故に、「人間特有だったはずの」ミスを犯す。さらには下されたミッションよりも自己の存続を優先する行動を取るようになる。

f:id:vegamacjp:20161016203241j:plain

裏返せば、人類は創造主(あるいは知性を伝播するもの)として、一歩ステップアップしたということ。
よって、木星付近を浮遊するモノリスはボーマン船長を媒介にして、人類を次なるステップへいざなう。そして結実したのがスターチャイルドだ。

f:id:vegamacjp:20161016203448j:plain

 

【物語の持つ意味】

この物語が凄いのは、50年近く前に現代のコンピュータ社会の形成や人工知能に対する危惧を予見していただけでなく、更にその先をも視野に入れた問題提起や提言をしていることだと思う。

たぶん、それって以下3点のようなことだと。
1.「自分たちは神の如く、知性や生命を創造できる可能性を秘めている」というポジティブな夢。
2.一方で、「自分たちが創造したものは自ずと自分たちでコントロールできるはず、との考えはトンデモない欺瞞であり、思い上がりだ」という警鐘。なぜなら我々もまた、他者により創造されたモノかも知れないのだから。
3.さらには、「それでも人類は、(自らの知性を高めることによって)そこに挑戦していくべきだ」という後世への提言。

f:id:vegamacjp:20161016203529j:plain

 

【制作の背景】

そして、この作品は(アメリカとしての)国威発揚と次世代のリーダー(とくに科学者や研究者としてのエリート)の発掘・啓蒙を目的とした国策的なプロパガンダ映画でもあると思う。

ゆえに、予算的にも時間的にも莫大な支出にいとめをつけず、完璧なクオリティを要求されたのだろう。特に、CG技術の無い時代、宇宙船のシーンやコンピュータ画面の画像、モノリスなどには莫大なお金と時間を費やしたらしい。

f:id:vegamacjp:20161016203951j:plain

 

なぜ、わかりやすい説明や解説を劇中に配することをしなかったのか?
(もちろんキューブリックの作家性による面もあるだろうが、)おそらくは、今よりも社会的な影響の強かった(であろう)カトリック界からの批判を避ける為ではなかったのだろうか。

f:id:vegamacjp:20161016203557j:plain

実際に、「2001年〜」を観て科学者を志した人は多いんじゃないだろうか(特に欧米)。もしかしたらビル・ゲイツスティーブ・ジョブスイーロン・マスクとか、そうだったりして。


商業映画であり、アートであり、米国のプロパガンダであり、人類の知的遺産へ昇華する可能性をも秘めた作品。
そう考えるとますます面白い!!

以上、すべて私の勝手な解釈によるものでした〜(客観的な裏付けはありません。)

 

2001年宇宙の旅 (字幕版)
 

  

2001年宇宙の旅 [DVD]

2001年宇宙の旅 [DVD]

 

 

決定版 2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫SF)

決定版 2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫SF)